辺野古クロニクル:沖縄・県民投票に行ってきた

43万人が「反対」しても、土砂は投入される。そのことついて、あなたはどう思う?

2019.01.17 清水 イアン

清水 イアン

今日も土砂は投入された。

43万人が反対している中で、生物多様性の宝庫である海を埋め立てる。僕にはこうすることの意味が理解できない。

県民投票で、沖縄の人々の民意は示された。今必要なのは、本土の人の声だ。

あなたは賛成?反対?

僕は、反対している。

でもどちらであっても、あなたは間違っていない。重要なのは、思っていることを丁寧に隣の人に伝えることだ。そして丁寧に相手の話を聞くこと。

今こそ、国民的な対話が必要だと思う。

あなたは辺野古の埋め立てに賛成?反対?

誰とでもいいから、話してみてほしい。


2015年 ~2018年12月14日

僕が最初に辺野古に行ったのは、2015年の夏のこと。

大学の卒論を辺野古の基地問題について書くと決めて、現地に足を運んだ。

僕が訪れたのはちょうど「辺野古第2の闘争」の真っ只中。「辺野古への移設反対」を公約に掲げた仲井真元沖縄県知事が海の埋め立てを「承認」したことで建設への GO サインが出され、陸地での作業や海での調査が進められていた。

現場に行くと、資材を積んだトラックが出入りするゲートの前で、基地の建設を阻止しようとする人々が座り込んでいた。その人たちを警察が強引に排除し、巨大なトラックの行列がキャンプ・シュワブ米軍基地の中へと消えていく。

ループする映画のワンシーンのように、来る日も来る日も同じ闘争が繰り広げられていた。

反対を押し切り進む作業。ゲート前で対立する人々。鼓膜を切り裂く怒鳴り声と悲鳴。辺野古で僕は心に大きな傷を負った。国の役割とは、正義とは一体なんなのか、わからなくなった。ただただ、人々の思いが踏みにじられていること、美しい海が埋め立てられようとしていることが悲しかった。

2ヶ月半ほど沖縄で滞在し、卒論を書き終え、僕は東京の気候変動に取り組む団体に入社した。自分が戦う土俵はそこだと心に決めた。

2015 辺野古、長島

2018年12月14日 ~ 2019年2月22日

2018年12月14日、とうとう辺野古の海に土砂が投入された。青白い砂地の海の中に、真っ赤な土が押し込まれて行く光景がニュースで流れていた。その映像をはじめて見たのは、気候変動の話をするために 「環境アクティビスト」として TBS ラジオに出演していた時のこと。

込み上げてくる怒りと悲しみの感情を抑え、放送を終えた。辺野古の「へ」の字も言えず、一体どこが「アクティビスト」なのか?と帰り道に自分を責めた。

ネットでは多くの人が反対の声をあげた。それでも土砂の投入は止まらなかった。僕に何かできることはないのか?考えた結果、毎日誰か一人と辺野古について話す。そう決めた。

2019年1月15日、大学の同級生で沖縄出身の元山仁士郎がハンガーストライキを始めた。そのことを知ったのは、彼のフェイスブック投稿だったと思う。ここまでやるのか。彼の覚悟と行動力に衝撃を受けた。

仁士郎は「県民投票の会」という団体を20代中心のメンバーと立ち上げ、2018年の5月ごろから「県民投票」を実現するための署名活動をしていた。

最終的には、沖縄全体を駆け巡り、9万筆という驚異的な数の署名を集めた。そして、辺野古の埋め立てに「賛成」か「反対」かを問う県民投票の開催を沖縄県に正式に決決めた。

しかし、県民投票への参加を拒否する自治体が出てきてしまった。「分断を生むから」や「普天間の固定化につながるから」というのがその理由だった。

2015年に、沖縄県知事であった故・翁長雄志が、基地の建設を阻止するために海の埋め立てに必要な「承認」を取り消し、国と法廷で争うことになった。最終的に下された判決は、沖縄県の敗訴。裁判所は、「沖縄県の人々が『辺野古の埋め立てに反対している』という民意があると言い切れない」と判断し、承認取り消しを却下した。

民意はどこにあるのか?その答えを獲得するには、全自治体の県民投票参加が不可欠。どうにか状況を打開するために、仁士郎は「5市長に県民投票参加を求めるハンガーストライキ」に踏み切った。

参加を拒否していた宜野湾市の役所前でテントを張り、泊まり込みのハンスト(ハンガーストライキ)が行われた。しかし彼の血圧が急激に下がり、最後はドクターストップが出て5日目で終了した。ハンスト中に自治体の姿勢こそは変わらなかったが、世界の目が沖縄と県民投票に向かった。

2019年2月23日 ~ 2019年2月24日

忙しい毎日に意識を奪われ、気が付けば投票日の3日前だった。沖縄に行くのか?行かないのか?僕は決めれずにいた。今行ったところで、自分の居場所などないのではないだろうか。

そんなことは関係無い。辺野古の基地、そして日本の民主主義にとって分かれ道になるかもしれない県民投票を遠くからただ眺めているわけにはいかない。決意を固め、すぐにチケットを購入し、二日後に空を渡った。

到着してからは、ただ沖縄の空気を味わった。北谷でコーヒーを飲み、那覇でそばを食べ、読谷で眠りについた。

2019年2月24日

「県民投票見るなら名護じゃない?」

前の日を一緒に過ごした友人リナに勧められた通り、県民投票の日は名護に向かった。辺野古は、名護市の東海岸沿いにある。20年余、辺野古の基地建設に踊らされてきた名護がどういう姿で県民投票を迎えるのかたしかに気になった。

名護では、電柱や壁など、至る所にある「街の隙間」に辺野古反対の言葉を綴った看板が飾られている。道沿いには「反対に◯を」と書かれた真っ赤なのぼりがところどころに立っていた。公民館には県民投票を宣伝する巨大な垂れ幕が下がっていた。

でもこれら以外に、県民投票を感じさせるものは何一つない。街に人影は少なく、静かだった。自分が乗る原付のエンジン音がやけにうるさく聞こえた。

15時ごろに具志堅と会う約束をしていた。それまでに色々と回ろうと思っていたのだが、平然とした名護に拍子抜けしてしまい、結局は公民館の横で通りかかった小学生の野球の試合をしばらく眺め、大好きな「八重そば」のミックスそば(大)を食べ、ファミリーマートで立ち読みをしていた。

具志堅は、辺野古の近くにある「二見」という場所で「村」を作ろうとしている、モヒカンがよく似合う親友だ。東京に来た時は平気で路上で寝たり、居酒屋で三線の弾き語りを始めたりする規格外にワイルドな男でもある。

沖縄では、経済のために基地が必要だという神話1が飛び交い、基地を取り巻く政治状況に対する無力感が蔓延している。それらを打ち砕く具志堅なりの「答え」が彼が村長を務める「ワカゲノイタリ村」だ。具志堅はそこから地域に根ざした新しい経済と発信を生み出そうとしている。

コンビニの扉が開き、具志堅が入ってきた。僕は喜びの笑い声をあげ、彼は「イアンー!」と言いながら寄ってきた。そのままそこで抱きあった。再開は半年ぶりだ。

具志堅は辺野古の埋め立てに反対している。そして無力感や分断を乗り越えるために村を作ろうとしている。僕はどちらのことも知っていた。だが、抱き合っただけで泣き出しそうになるほど追い詰められていたとは知らなかった。

彼は辺野古の基地建設を容認する親や兄弟と立場が一致せず、家族との分断を経験している。2018年の名護市長選で意見の違いが表面化し、辛い思いをしたみたいだ。僕と会った前夜は、県民投票の宣伝をしている最中に、ある居酒屋で見知らぬ人と辺野古に関して意見の衝突があったらしい。

具志堅が流しかけた涙には、ナイチャー(内地=本土の人)には想像できない苦労が秘められている気がした。

具志堅が投票を済ませたいと言うので、一服し、車に乗り込み投票会場へと向かった。粛々と投票が行われていた小学校の体育館の奥へと姿を消し、彼はすぐに出てきた。

「どうだった?」
「いや、最高ー。投票最高!」

投票最高!二人で大きな声をあげ、飛び跳ねながら車に戻った。具志堅は嬉しそうであった。

今回の県民投票は、辺野古に基地を建設するために必要な埋め立てに対して「賛成」、「反対」、「どちらでもない」のいずれかを選ぶ三択であった。もともとは「賛成」か「反対」の二択になるはずだったが、不参加を表明する自治体の要求を聞き入れ、「どちらでもない」が選択肢として追加された。

逃げの選択肢となる「どちらでもない」を入れることは結果を濁し、投票そのものを無意味にしかねないどことか、賛成派を優位にさせる可能性もある。県民投票の開催に尽力してきた人たちの中からも不満の声が上がった。

だが3択にすると譲歩したことで、5市長の県民投票への参加が決まった。仁士郎のハンストが終わった5日後、1月24日のことだった。

投票後、名護の商店街で

夜は那覇に向かった。仁士郎の誘いで、県民投票の会のメンバーたちと開票を見守ることにしていた。僕はポテトチップスとビールを囲んで、みんなでテレビでも見るのかと思っていた。

飛んだ勘違いだった。

鼻歌を歌いながら開票を見守る会場に足を踏み入れた瞬間、フラッシュに目がくらんだ。教室二つ分ぐらいの大きさの部屋の中央に仁士郎が立っていた。彼の後ろには、県民投票の会のメンバーや協力者が列を成し座っていた。何十台あっただろうか?メディア各社のカメラが、仁士郎一点に向けられていた。

差し入れでもしようと思って近くのカネヒデで買ったおやつを片手にぶら下げながら、呆然と立ち尽くした。県民投票が歴史的な出来事だとわかっていたつもりだったが、ことのスケールにこの時にようやく気づいた。

取材が少し落ち着いたタイミングで仁士郎のところに行った。話していると彼がゆったりとした口調で聞いてきた。

「今回は沖縄に何しにきたの?たまたま?」
「いや、県民投票を見に来たんだよ。」
「おー!わざわざこれのために?すごいね。」

すごいのはお前の方だ。思わずそうツッコミたくなった。だがこういった柔らかな部分があるから、ここに至るまでの険しい道のりを彼や仲間たちは乗り切れたんだろう。

会場にはたくさんの人がいた。県民の人たち、僕のように他の地からこのために駆けつけた変わり者、ウーマンラッシュアワーの村本大輔や、ジャーナリストの津田大介、芸術家の人もたくさんいた。

僕はひっそりと身を潜めるように、部屋の後方の椅子に腰を下ろした。理由はわからないが、開票の会場に具志堅は中々入ってこようとしなかった。

1995年9月4日、小学6年生の女の子が米兵3人にレイプされた。県民は激怒し、沖縄中で基地に反対する運動が加熱した。収まることのない怒りの矛先は普天間の基地へと向けられた。

普天間は、そもそも「銃剣とブルドーザー」2を用いて強制的に奪われた土地の上に建てられた基地だ。しかも住宅街のど真ん中にある。人々は、普天間の即時返還を求めた。

頂点に達した沖縄県民の怒りを放っておくことはできず、日米政府が動いた。1995年に沖縄の基地負担軽減と普天間の返還を目的とした「沖縄に関する特別合同委員会」が設置され、1996年12月にその最終報告書が発表された。その中で「県内への移設」を条件に5から7年で普天間を返還するという合意がされた。そして1997年、その移設先が辺野古に決まった。

なぜ普天間を返還してもらうために、辺野古を差し出さなければいけないのか?

違和感だらけの合意だった。当然、辺野古がある名護市の人々は移設に大反対した。もう片方では、普天間の危険性を除去するために移設を進めるべきだという意見が上がり、さらなる分断が生まれた。

辺野古がダメなら、普天間をどうするのか?代案は?

辺野古に反対と言うと、そんな答えがよく帰ってくる。そういう人は、強制接収の歴史や、沖縄の過剰な基地負担の現状を理解しているのか、いつも疑問に思う。

それに、代案を示さない限り辺野古の埋め立てに反対してはいけないというのはおかしな話だ。確かに、普天間について話すのは大切なことだ。でも正しくないと思うことに「反対」する権利は誰にでもある。

今回の県民投票で反対の民意が示されたら、国はどう答えるのか?もし、民意を無視して国が建設を進めたとしたら、それはどういう意味なのか?

僕は県民投票を分岐点に何かが動き出す。そう感じていた。

開票結果は夜の11時に出る予定だった。僕が開票会場に到着したのは 20時ごろ。その時にはすでに埋め立て「反対」過半数が確実と報道されていた。

蓋を開けてみると、「反対」の民意は圧倒的であった。投票率は 52%。過半数越えを達成した。最終票数は60万票以上。反対には43万票が投じられ、72% が反対した。

具志堅は「良かった」と胸をなでおろすように繰り返していた。会場に集まった100人近い協力者や観衆の間ではハイタッチが交わされ、目に涙を浮かべる人もいた。誰が何と言おうと、結果は県民投票の会の大勝利だった。20代数名から始まった動きが、60万人を動かした。

僕は、東京の友人に連絡しようと思い焦ってラインを開いた。その日の結果を Spiral Club の Facebook で発表するために用意していた文章に、最終結果の数字を打ち込んで、送信した。嬉しかった。沖縄の人々は「反対」の民意を示した。東京の友人たちも喜んでいた。

だが歓喜の瞬間は異様な落ち着きに包まれていた。玉城デニーが県知事選を勝利した時のように、花火が弾けるような爆発的な喜びはどこにも見当たらなかった。誰一人、カチャーシーを踊らない。それぞれが脳裏にこびりつく現実を、この瞬間ですら振り払えずにいるかのようだった。

本当に状況は変わるのか?1996年にも県民投票があり、圧倒的多数が基地の削減を求めたが、国の反応は鈍く、状況はほとんど変化しなかった。開票結果が出た直後のインタビューで仁士郎は「この結果を国に重く受け止めてほしい」と話した。だが権力は即座に水を差してきた。沖縄防衛局が「建設は進めるしかない」という声明を出し、NHK はそれを投票結果とともに報道した。

「県民投票の会の次の動きは?」

メディアの人から質問が上がる。

一体、これ以上何をしろと言うのか?僕はその問いかけに怒りを感じた。

2019年2月25日

次の朝は頭痛で目が覚めた。

開票後、県民投票の会のメンバーや具志堅などとの飲み会は朝5時まで続いた。どうやら僕は、芸大の学生が暮らすシェアハウスの床で眠りに着いたらしい。朝8時半の船で座間味に渡り、ホエールウォッチングをする予定だったが、携帯の画面には「11時」と「不在着信13件」と表示されていた。船の船長には申し訳ないことをしてしまった。

その日の朝早く、夢うつつの状態で、開票の会場で出会ったキュンチョメというアーティストユニットの1人と言葉を交わしたのを思い出した。

「今日も辺野古に土砂が投入されると聞いたから、ゲート前に行ってくる。」

そう言って彼女は出て行った。

12時ごろだったか、重い体を無理やり起こし、具志堅と車に乗り込み、カイを迎えに行った。カイは県民投票の会のメンバーだ。彼は投票が終わった実感が全く無いと言っていた。色々な話をしたが、カイに仕事について聞いた時の答えが印象的だった。

「今は医療系のベンチャーのコールセンターやってて。自宅で電話に出るだけなんすけど、沖縄の最低賃金が少ないのをいいことに利用してて。超ブラックっすよ!」

カイは笑っていたが、僕はどう反応すべきか戸惑った。

沖縄県の最低賃金は 762円と鹿児島の次に低く、平均年収も都道府県別で下から3番目だ。大学への平均進学率は 37.6% で全国最下位。東京の約半分だ。多くの人にとって、沖縄といえば青い海、そば、赤瓦、心優しい人々、そんなイメージがあると思う。だが「観光地」沖縄の裏にはこのような難しい現実がある。もちろん、基地もその一つだ。

昼飯を食べ、具志堅とカイと3人でゆっくりと過ごした。カイは取材を受けにどこかへと行き、僕は具志堅とワカゲノイタリ村に向かった。

2019年2月26日

次の日は大切な日だった。

朝 7:00 に起きて、テント2へと原付を走らせた。テント2は辺野古の「海上行動」の拠点である。基地建設の監視と阻止を行うボートとカヌー隊の乗組員が毎朝集まり、海へと繰り出して行く場所だ。

僕はテント2でマコトさんと落ち合った。マコトさんは、基地の建設を監視する「レインボー」という船の船長だ。粗々と伸びた白い髭と、頭の後ろで結ばれたグレーの髪、海の男らしい野生的な雰囲気と無邪気な笑顔が魅力的な、心の優しい頑固オヤジだ。

機材を車に積み、レインボーに移し、汀間漁港から出航した。向かうは大浦湾の「チリビシ」というポイントだ。空は晴れ渡っていた。船尾に飾られた、虹色の背景に PEACE と書かれた旗が、風にはためいていた。

報道では曖昧にされることが多いが、辺野古の基地を建設するためには二つの海が埋め立てられる。一つが、辺野古岬の南側にあるキャンプ・シュワブ内のビーチ沿岸i。二つ目が、岬の北と東に広がる大浦湾の一部だ。この二つの海をまたぐ形で、滑走路2本と軍港が10年かけて作られる計画だ。

計画されている辺野古新基地

大浦湾は、生物多様性の宝庫として知られる。2014年に行われた調査だけでも、大浦湾には5800種の生物が生息していることがわかっている。5800 とは、世界自然遺産に登録されている屋久島よりも多い数字だ。しかもその中には絶滅危惧種や未記載種が 280以上が含まれている。

ようやく、そこに飛び込む時が来た。

チリビシに到着し、ブイにロープをかけ、船を止めた。風は弱く、波は穏やかで、船はユラユラと心地よく浮いていた。船を停めた場所から 2km半ほど東にある辺野古岬の方を眺めると、建設作業が続けられているのが見えた。

きっと今朝も何も土砂は投入されたんだろう。キュンチョメが言っていた通りだった。赤く変色していく水のイメージが脳裏に湧いた。船から一番近い陸地には、オレンジ色のレンガが賑やかな高級ホテル、カヌチャベイリゾートが見えた。そこでも変わらない日常が流れていたのだろうか。

船の後方から大きく一歩踏み出し、ザブンと海に身を沈めた。沖縄といえど、2月の海は寒い。ウェットスーツの隙間から流れ込む海水に一瞬で包まれ、冷たさに反応した身体がハッと息が逃がした。

バディーのトビさんと水中を蹴り進み、水深 15m ほどの海底にたどり着いたところで、クルッと体ごと振り返り、上を見上げた。そこに日が差しこむ水面に向けて目一杯身体を伸ばす、巨大なアオサンゴ礁がそびえ立っていた。

念願叶ったり。これを見るために「チリビシ」に来たのだった。

チリビシの青サンゴ群落は長さ約 50m、幅約 30m で、水深 2 – 12m にかけて分布している 。このアオサンゴは、たった一つの小さな「ポリプ」からここまで育った。ポリプとは、体長数ミリの、サンゴを形成する動物だ。ひとつのポリプをサンゴと呼び、ポリプの集合体をサンゴ礁と呼ぶ。そして、サンゴ礁の集合を群落と呼ぶのだ。

チリビシの巨大な青サンゴは、単一のポリプのクローンであることがわかっている。つまり、数ミリしかない、たった一つのポリプがこの巨大な群落へと成長したということだ。この大きさになるまで、一体何百年、いや、何千年かかったのだろうか?

アオサンゴの周りには、デバスズメダイやフエフキダイ、カクレクマノミなど様々な魚が心地好さそうに泳いでいた。海の中は命に溢れ、生き生きとしていた。

そうか、ここはまだ大丈夫か。僕は少し安心した。

目前に広がる青サンゴ畑は、僕に永遠の時を教えてくれているかのようだった。自然界の時間軸と比較すると、人間の命は瞬きほど短い。しかし文明の発展により、人類は巨大な破壊力を手に入れた。何百年、何千年、何万年の時をかけて育まれた大浦湾という命の結晶を、一瞬の判断で破壊する権利が私たちにはあるのだろうか?そんなことを考えながらゆっくりと水面を目指した。

船に上がり、監視するために、建設現場に向けて船を進めた。大浦湾の大部分が、オイルフェンスという大きな浮きの囲いで仕切られていて、立ち入ることができなくなっている。フェンスの目的は、抗議する人々の侵入を遮り、速やかに建設を進めることだ。フェンスの周りを移動する間、海上保安庁の船に追跡され続けた。

僕たちはオイルフェンスの外側を回り、長島の間を抜け、辺野古岬の東側にあるビーチの方に向かった。

オイルフェンスの向こう側に見える陸地では、ユンボやクレーンが忙しく作業をしていた。そこら中に土砂や砂利が小山のように積み上がっていた。その少し手前で、トラックがせわしなく赤い土砂を移動しているのが見えた。

埋め立てが進んでいる場所は高さ10m ほどの護岸で隠されていて、海からだと中でどういう作業が進んでいるのかはわからない。だがここにたどり着くまで、ニュースで海を土砂が埋める空撮写真を何度も見た。そこでどういう光景が広がっているのか、もう知っている。

監視地点にに到着すると、マコトさんがオイルフェンスにレインボーの船首を突き刺した。船の力を受け、オイルフェンスは内側にへこんでいく。

「こちら臨時立ち入り禁止区域です。速やかにオイルフェンスから離れてください。」

追跡を続けていた船の乗組員がすかさずメガフォンで注意してきた。

「海を埋め立てるな!」
「オイルフェンスは違法だ!」

マコトさんとトビさんが応戦した。

「こちら臨時立ち入り禁止区域です。速やかにオイルフェンスから離れてください。」

マニュアルを読み上げるロボットのように、海上保安庁の男はただひたすら同じ言葉を繰り返した。

言い合いを見ていて心が痛んだ。ここで対立しても何も変わらないのは誰もが分かっている。足元に広がる、今はまだ鮮やかに輝く青い海を見て、悲しい気持ちが込み上げてきた。

辺野古が建設されて喜ぶのは一体誰なのか。答えは常に見え隠れしている。少なくとも、海を守りたいと願う人々や、辺野古の基地を止めるために人生が狂わされてきた人々が喜ぶことはない。

建設されて残るのは、43万人が示した民意を国が踏みにじった事実と、二度と取り戻すことができない生物多様性が、土砂とセメントの塊に塗り替えられたという現実だ。辺野古の基地は、その証として立つのだろう。軍事基地という破壊の象徴にはふさわしい看板かもしれない。

透き通った海が羨ましくなるほど、自分の心は怒りと悲しみで濁っていた。

テント2。写真は2015年と時のもの

陸へと引き返し、船を上げ、機材を洗い、テント2で弁当をかき込んだ。夜は那覇で具志堅と落ち合う予定があった。その前にワカゲノイタリ村に行かなくてはいけないので、あまりゆっくりはしていられない。急いで荷物をまとめ、原付にまたがった。

ドーン

突然、爆音が空気を切り裂いた。僕はサッと振り返り、見送りに来てくれていたトビさんに聞いた。

「これはなんの音ですか?」
「訓練の音よ。」
「訓練?」
「そうそう、最近増えたの。でも今日はまだいい方よ。」

辺野古にあるキャンプ・シュワブ米軍基地は訓練場も備えていて、普段から爆音が鳴り響くらしい。辺りを見回すと、みんな平然としていた。テント2の人々にとってはこの状況が日常になっていたことに何より驚いた。

ドカーン

原付のエンジンをかけ、地響きのような鈍い低音が鳴り響く辺野古を後にした。

1:基地が沖縄の経済にもたらす経済効果は 5% 程度です。沖縄本土では全体面積の 15% ほどが米軍専用施設(基地)です。(https://www.pref.okinawa.jp/site/kikaku/chosei/kikaku/yokuaru-beigunkichiandokinawakeizai.html)

2:「銃剣とブルドーザー」とはその言葉の通り、銃剣とブルドーザーを持ちいて強制的に土地が奪うことです。そういった奪われ方をした場所がその後基地になっているところが多数あります。その内の一つが普天間です。僕はこのことを当事者であった方(現普天間基地の中で父親と暮らしていて、ある晩銃剣とブルドーザーで家を追い出された)から聞きました。ネットでも情報があるので、ぜひ調べてみてください(http://toyotaroudousya.blog135.fc2.com/blog-entry-2268.html)。
清水 イアン

清水 イアン

1992年大阪生まれ東京育ち。心のふるさとは沖縄の海。国際環境NGO 350.org Japanを経て、現在はフリーで環境に関する記事の執筆、講演、コンサルをしている。環境に関する「会話」が日常化していない状況を変えたく、仲間と新たな発信の拠点「Spiral Club」を立ち上げる。もっと詳しく

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